継承
初代治兵衛にあたる祖父は名古屋で、4〜5代、続く木地師の家に生れました。腕の良さを示すものとして、向こうが透けて見えるほど極薄挽きを得意とする木地職人でした。家には、祖先らが自由に森に入り木を切ってもよいという許可状が伝わっています。
素地まででは満足せず、木地にぬりを施し、漆器としての完成品を目指していた頃、魯山人と出会いました。名古屋の祖父の仕事場でのこと、魯山人が漆を塗ることもたびたびあり、轆轤を挽く祖父のすぐ傍にたち、魯山人の息がかかるほど近くで指導を受けたと聞いています。
その指導により、治兵衛の特徴となるざんぐりした“はつり“を生かすこと、薄挽きの中に大胆さがある作風が創られたのです。
有名な名古屋の八勝舘という料亭で、魯山人、料亭主人、祖父の三人が工芸談義など、さまざまな興味深い話をしていたことを当時の女将がなつかしく話して下さいました。
その後、東京の料亭などからの注文が多くなったため、転居することとなり、私は東京でうまれました。
祖父・父・叔父ら大勢の職人によって工房は営まれ、父に治兵衛をゆずった祖父は、陶芸である茶碗の制作にのめり込みます。庭に窯を築き手探りで、樂茶碗を焼きはじめました。何度も失敗を重ねるなかで、幸運なことに、少しずつ人様の目にとまるものができました。
当時、小山富士夫氏、大河内風船子氏などとの酒宴を家ですることが多く、子供だった私は寝る場所がなく、よく押し入れで寝ていた事を思い出します。祖父は堅物で、ヘンクツな面もあったようですが、あたらしいものが好きで、酒宴のたびに紀伊国屋などで、外国の食材を買い込んだりしていました。そして、松永耳庵氏など、御数寄者の茶会で祖父の楽茶椀をお使いいただくこととなり、それがきっかけで、茶碗に表・裏両千家の御箱書きをいただくこととなりました。
そうした折に、本業はうるしなのです、とお伝えし、漆器にも御箱書きをいただくことができるようになりました。
今日では、「うるしや」がなぜ、茶碗をつくっていたのか?という質問をよくいただくので聞き覚えのあることを少しずつ残したいと考えています。