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長い歴史を持つ日本の漆芸

長い歴史を持つ日本の漆芸

日本には「漆芸」という工芸があります。木を刳ったり、組み合わせたり、竹を編んだりして作った器や調度に、漆という木の樹液由来の塗料を塗って仕上げるものです。漆芸は東南アジアから東アジアにかけて行われていますが、それは漆が湿度によって硬化する性質があるためです。日本では縄文時代早期(紀元前12,000年から紀元前7,000年)に作られたと推定される漆の副葬品が出土していて、古くからある技法です。

漆は器のほか、盆や膳、調度、室内装飾などに使われますが、日本人にとって、漆の器は最も身近です。

治兵衛スタイルの仕事

三代村瀬治兵衛は、木地師であり塗師である、数少ない存在です。

木地師とは木からものを形作る職業で、塗師とはその木地に漆を塗る職業です。この二つは、現代ではほぼ分業になっています。

このような仕事の仕方は、祖父である初代治兵衛が美術家の北大路魯山人(きたおおじろさんじん)1と出会ったことから始まりました。初代治兵衛は名古屋で江戸時代から続く木地師の家に生まれ、向こうが透けて見えるほど薄く挽く腕とともに、木を知り尽くしていることで知られていたのです。

魯山人は京都で生まれ、初めは書家として頭角を現しました。その後、陶芸や絵画も手がけ、一時期は料亭に関わるなど、幅広い活躍をした美術家です。食通としても知られ、死後60年以上が経つ今も、その随筆が読まれています。

魯山人は、名古屋の料亭「八勝館」の主人である杉浦保嘉氏2と付き合いがありました。杉浦氏は常に魯山人から料理、器、もてなしの指導を受けていましたが、あるとき、八勝館での工芸談義に、木地師の初代治兵衛と塗師の数人が呼ばれました。

「こんな椀が作れるか」と魯山人と杉浦氏が示したのは、古い秀衡椀でした。塗師たちは「作れます」と請け負いましたが、初代治兵衛はその素朴で高雅な作行きを見て、「このような味は出せません」と言って断りました。その返事が魯山人と杉浦氏の心に叶い、治兵衛に秀衡椀を作るようにと依頼が来ました。魯山人はたびたび仕事場を訪れて、治兵衛のすぐそばに立って細かく指導したといいます。その結果、ざんぐりとした木地に、勢いのある漆絵と金箔を施した秀衡椀が生まれました。

その後、初代治兵衛は、木地師と塗師の両方の仕事を手がけるようになりました。その作行きは力強さと自然への崇敬の念を感じさせます。

1)北大路魯山人(1883年~1959年) 書家、画家、篆刻家、陶芸家などさまざまな分野の美術を手がけ、一方で料理に造詣が深く、美食家としても知られた。

2)杉浦保嘉氏 愛知県名古屋市八事にある料亭「八勝館」の初代主人。北大路魯山人とは家族ぐるみの付き合いがあり、その影響で料理やおもてなしについて、さまざまな指導を受けていた。「八勝館」には、食器から便器に至るまで魯山人の作品が数多く残されており、魯山人ゆかりの料亭として支持されてきた。 堀口捨己が設計した数寄屋造りの「御幸の間 」、表千家の「残月亭」を模した「残月の間」、堀口捨己と早川正夫の設計による数寄屋造りの「桜の間」 、早川正夫が修復・改修した茅葺き屋根の「田舎家」がある。

二代治兵衛と立花大亀老師

初代治兵衛は魯山人に出会ったことで、その仕事が大きく変わりました。その息子である二代治兵衛が出会ったのは、大徳寺の第511世住持だった立花大亀(たちばなたいき)3老師です。大亀老師と出会ったのは1960年ごろ。数寄者の茶の世界の中心にいた大亀老師との付き合いの中から、さまざまな茶道具や仏具が生まれました。大亀老師は、「侘びとは詫びるということ」と語り、道具が地味であることが侘びではなく、使う人の心持ちであるという立場でした。大亀老師を囲む数寄者や政財界の方々との交流を通じて、二代治兵衛は洗練された茶道具を作るようになりました。

3)立花大亀老師(1900年~2005) 臨済宗の僧。大徳寺塔頭徳禅寺長老。「政界の指南役」と言われた禅宗界の長老。大阪生。南宗寺で得度し、妙心寺専門道場で修行。大徳寺執事長・大徳寺派管長代務者等を歴任。昭和57年花園大学学長に就任。茶道に精通し、茶人や書家としても知られていた。また、茶の湯や昭和50年代に携わった経済誌を通じ、池田勇人元首相をはじめ、福田赳夫元首相、松下幸之助ら多くの政財界人と交流。禅の教えを元にアドバイスし、「政界の指南役」と言われていた。

茶の湯が暮らしの中にあった三代治兵衛

三代治兵衛は、子どもの頃からお茶が生活の中にあり、立花大亀老師をはじめ、たくさんの数寄茶人が来る家で育ちました。幼稚園の頃からお茶を点て、水屋で寝ていたこともあった三代治兵衛は、「暮らしの中にお茶があって、特別なものではなかったです」と言います。現在も自宅で茶会を開くことで、現代作家の道具を取り合わせて自分も楽しんでいます。

仕事を始めてから30年間は、古典を写す仕事を手がけ、日本の形を自分のものにしていきました。2001年に村瀬治兵衛を襲名してから、自分の形を作り出すことを始めました。陶磁器研究家の林屋晴三(はやしや せいぞう)4)先生に出会ったことが大きな転機となりました。林屋先生は「流儀を問わず、今を問う」という考えを持って製作するようにと、愛用の茶碗を預けて、それに取り合せる道具を指導されることもありました。その中から生まれたのが「ハツリ」「鉈削ぎ」のシリーズです。

木地師の仕事は、山奥に入ってまず生の木を割り、おおまかに木取り加工をすることから始まります。倒したばかりの木には、たくさんの水分が含まれていますが、乾燥するにしたがってどんどん割れが入ります。そこで、木地師は木を倒した場所で手斧(ちょうな)や鉈を使って、大きくハツリを行います。ハツリとは、木を大まかに粗どること。これによって、木が動きやすく、割れにくいようにするのです。

現場での大胆な仕事跡であるハツリの面を残すことが、魯山人からうけた最大の影響であり、代々の村瀬治兵衛の作風の根底をなしています。魯山人には意図的でないその仕事が、魅力的に映ったのです。

このハツリが木の生命力をひきだし、自然を求める現代を表象する茶器になっています。

「漆の器は人間よりも長生きです。これから1000年後も漆の仕事が続いていることを夢見ています」と三代治兵衛は言います。

三代治兵衛の作品は、アメリカ・フィラデルフィア美術館、イギリス・ヴィクトリア&アルバート美術館に収蔵されています。

4)林屋 晴三(1928年~2017年)は、日本の陶磁器研究家。 茶道に通じ、陶磁史研究、茶道界においての重鎮として厚い信頼をえていた。京都生まれ。京都府立京都第五中学校卒。1948年国立博物館(現・東京国立博物館)に入る。工芸課長、資料部長、1988年次長。頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長。2003年旭日小綬章受章、2007年織部賞受賞。

撮影協力:名古屋 八勝館

八勝館にて

初代治兵衛作品と魯山人コラボ作品